東日本大震災レポート

「被災地を取材して」

取材課 青木周作
取材期間:2015・3・9~3・12
取材地:宮城県石巻市、名取市
スタッフ:撮影 青木
     記者 松本
     カメラ Canon XF-105

東東日本大震災から四年、取材で被災地に入ったのは9回目となる。

2015年3月11日午後2時46分、気温2度
宮城県の名取中学校にサイレンの大きな音が鳴り響いた。
黙祷を捧げる200人以上の人。「今でもただいまと帰ってくるのを待っている・・・」という遺族の言葉、2:46分を指したままの時計、泥だらけの校舎は当時のままだ。その一時間後の海岸線、海に向かって手を合わせる母子の姿があった。「夫が亡くなったのは津波が原因だからその時間に手を合わせたい」という強い思いだった。

石巻市では津波に町ごと飲み込まれた地にポツンと一軒だけ営業する「石巻焼きそば」の店主と出会いカメラを向けた。男性は食堂を営業中に震災に遭い奥さんは今も行方不明、流された店舗跡を探していると焼きそばの調理に使う「へら」二本を偶然発見したという。
奥さんの得意料理「焼きそば」をこれからも作り続けて欲しいというメッセージとして
受取り、移動販売ができる車を利用し奥さんの帰りと石巻の復興を願い営業を続けている。
前向きに生きる姿と現実を受入れることができない心の葛藤を感じた。

4年という月日は私自身も世間も「震災の記憶」「絆」「日本は一つ」という思いが少しずつ薄れ始めているのではないだろうかと感じることがある。
かさ上げ工事、ダンプの列、仮設住宅、被災者の深い心の痛み・・・復興はまだ道半ばだと感じた。震災を忘れないよう今後もカメラを通して被災地と向きあい伝えようと思った。

東日本大震災取材レポート(12) 

カメラ:鶴田新子
取材先:宮城県
取材期間:2014年2月

東日本大震災から3年経ちました。3年前はJNNの応援などで岩手県や福島県に入り被災地を見てきました。今年2月、初めて宮城県名取市の閖上(ゆりあげ)地区に取材に行きました。
閖上地区は名取市の中でも大きな被害を受けた地区です。そこで最初に感じたのは復興の遅れでした。 復興といっても、住宅や店舗の再建、集団移転、地盤のかさ上げなど様々なかたちがあると思いますが、閖上地区はどれも進んでいませんでした。漁業が主なことから、港周辺の工事や新しい船舶そして朝市などは見られましたが、ほとんどは瓦礫こそ無いものの更地が広がっていました。閖上さいかい市場のイベントを取材した際、名取市長も参加されていたので話を聞くことができました。
記者の「閖上地区は復興が遅れている。」という質問に対し市長は憤慨していました。
「高台があれば集団移転させてあげることができるんですよ!」
「住民みんなが戻るなら土地のかさ上げをすることもできます。」
「あなたのその質問が現地で生活する人をどれだけ傷つけているかわかりますか!」
閖上地区には高台がありません。まわりを見ると今は見渡す限りの更地です。実際、長年この地区に住んでいた住民も避難生活が長引くにつれ閖上地区に戻りたいと言う人は減っています。閖上地区をどれくらいの規模で再建させるのか―事業規模の方針の変更を繰り返したことも復興の遅れへと繋がりその遅れが住民の現地再建を阻んでいます。

私は改めて福岡と被災地との距離を感じました。東日本大震災からもう3年も経ったと言う人もいます。しかし、まだまだ復興には程遠い現実。この震災を忘れないために私たちにできることは、今後被災地とどう向き合い、発信していくのか、実際に現地へ行って取材することの大切さを再認識しました。

東日本大震災取材レポート(11)

カメラ:岩田昌将
取材先:JNN三陸支局
取材期間:2012年9月22日~2012年10月8日

私は9月22日から10月8日まで約2週間JNN三陸支局、最後の応援として行ってきました。
今回で3度目の気仙沼入りです。 約一日かけてついた気仙沼、1月以来の気仙沼。
あの大震災から1年と半年がたちましが、最初に来た時はまだめちゃくちゃで、2度目は瓦礫が山の様にあって、今回は何もなくなって草がたくさん生えていました。

今回私たちのクルーに求められたのは、1年半で取材するニュースはなんなのか、1年半たった今だからできる取材をする。 その為のネタを探す。それが一番大変でした。もちろん日々の当たり前のニュースも大事ですが、私たち取材クルーに求められる物は被災地の「今」なのです。
記者と一緒に各市町村やローカルの新聞などから情報を探し、話を聞いてTBSのデスクからOKが出てやっと取材ができます。 先に撮影はしたもののボツになった物もありました。そしてようやく形になったのが被災地の職員不足というネタでした。 大槌町では職員の四分の一を失い、職員不足を補う為全国の自治体から職員が派遣されていて、私達が取材した課は25人のうち20人が県外からの派遣職員という、深刻な職員不足を取材しました。そういった取材をして行く中で皆さんが口々に言うのは、どんどん忘れられていっている気がする、このままじゃ風化していく。報道される回数も少なくなっているから他の地域の人は現状を分かっているのか、と。
確かに私たちが住む福岡では被災地のニュースはあまり見る事はありません。だからといってあの大震災を忘れてはいけないし、風化させてはいけない。そのために私たちは、継続的な取材と報道をしていかなければならないと強く感じました。
今回も2週間という短い期間でしたが、中身の濃い日々となりました。また、機会があれば是非行きたいと思います。

東日本大震災取材レポート(10)

カメラ:島田武
取材先:福島県
取材期間:2012年2月22日~3月4日

震災から1年を迎えた福島に2月22日から3月4日まで、テレビ ユー福島の応援に行って来ました。
福島県は北海道、岩手県に次ぐ日本で3番目に大きな県で、海沿いが浜通り、福島市がある中通り、会津若松市のある会津地区と県を縦に3つに分けて呼んでいます。地震の速報でよく浜通りで震度3などと出ますが、実は福島県の海沿い全部を指しています。
TUF(テレビュー福島)の局内は震災1年を迎え、特番に向けて一番忙しい時期でした。応援体制はTBSが4日交代で東京から報道車両込みで応援に来ています。そして全国から1クルー、12日間前後で交代します。
私達の前が北海道のHBC(北海道放送)さんでした。この応援の2クルーが昼や夕方のニュースを担当します。もちろんメインはTUFさんです。
福島応援の取材の中で取材クルーには重要な持ち物があります。それは線量計です。これは、応援中の総被ばく量が幾らになるのかを記録する為です。実際は12日間福島にいて50μSvと1年間の国が定めている値の50分の1くらいの値でした。しかし、福島の人々にとっては、除染が終わらなければ自分の家に戻れない現実があります。第一原発から30㎞離れているが、計画的避難地域の飯舘村を夕方 取材の帰りに通りました。道路を車だけが行き来しているだけ、遠くにパトカーのランプの点滅、住宅には人の気配が無く不気味さを感じ、福島市内では見られない被災地の現実を見た気がしました。
福島市内から浜通り地区の相馬市や南相馬市、いわき市に取材に行く機会が何度かありました。高速道路もなく、雪の山越えをしてTUFから車で2時間位かけて移動します。
取材で海岸に程近い南相馬市の鹿島地区に行きました。そこには津波によって何もかもが流されていて、鹿島地区の人々の心のよりどころになっていた神社も跡形もなく無くなっていました。これを知った熊本県の球磨高校(全国で唯一の伝統建築専攻科)の生徒達が復興の為に3カ月を費やし制作した鳥居と社殿(20年前の先輩が制作したもの)を 神社に奉納しようと被災地にトラックとバスを連ねてやって来ました。
私達RKBクルーも朝4時半にホテルを出発し、生徒達の到着から取材しようと現地に向かいました。
作業当日は気温0度、雪の舞い散る中でしたが、無事元の神社があった場所から少し離れた所ですが、真新しい鳥居を作業服と地下足袋をはいた生徒達と地元の人々が力を合わせて立ち上げました。立派に奉納された社殿に手を合わせている地元の人達、方言交じりで「これでまたお参りが出来るよ」、「ありがとう」の言葉と笑顔が今も印象に残っています。高校生の照れくさそうな そして少し誇らしげな顔も撮影出来ました。

原発事故から1年が経ちました。
まだまだ福島の除染作業は先が見えないと、雪の中 畑作業をしていたお年寄りに話を聞きました。ここに住むしかないんだよ、しょうがないよ、畑も汚染されてるけど、手入れをしないとダメになる。人体には影響がないと言われてるけど誰が買ってくれるんだ!。
安全な福島になる日はいつになるのでしょう。近い未来に避難生活を余儀なくされている人達が早く元の場所に戻ってこれる事を願います。

東日本大震災取材レポート(9)

カメラ:岩田昌将
取材先:JNN三陸支局(宮城県気仙沼市)
取材期間:2011年12月30日~2012年1月12日

私は2011年12月30日からJNN三陸支局がある宮城県気仙沼市に行って来ました。
昨年4月に応援取材で気仙沼に行って以来なので約9ヶ月ぶりです。実際に仕事を始めたのは31日からで、年末という事もあり、年越しライブや初日の出を取材しました。

初日の出の取材ではNBCさんが岩手県の陸前高田市、TBCさんが南三陸町、そして私達が気仙沼でそれぞれ撮影しました。
その時そこにあるものを撮るという基本的な事なのですが、一番難しいなと感じました。
幸い年末の天気は良好で綺麗な初日の出、被災地としての初日の出を撮る事が出来ました。

年始になるとネタを探すのが大変で、JNN三陸支局では岩手県釜石市の辺りまで取材を行っているため、私達クルーは陸前高田市、大船渡市、釜石市で時間があるときはリサーチを行っていました。年始は市役所などが休みのため中々うまく進みませんでしたが、リサーチしたネタを取材して、2本リポートを出す事が出来ました。
基本的に取材はRKBクルーでまわるのですが、今回一緒に行っていた林記者が編集作業をする場合は、TBSやTBCの記者の方と取材をしました。三陸支局には泊り勤務もあり各局交代で泊っていて、泊まりの日にはTBCの夕方ローカルの中継、隔週水曜日の朝ローカル番組の中継をします。私はたまたま夕方の中継、朝の中継と両方ともする機会がありました。
どちらともホテルのテラスから中継しているのですが、夜はとても寒く最低気温はー7℃、中継に入るまで1時間待機していると手の感覚が無くなったりしていました。中継自体は比較的簡単な作業で、カメラワークも無くケーブルも1本つないで出すだけでした。
そうやって取材をして行く中で、着実に復興は進んでいるなと感じる事ができました。
何故かというと、気仙沼港で行われた初セリの取材ではメカジキやクロマグロ、カツオなどが揚がり、震災以前までとは言わないが活気が戻ってきていると卸業者の方も言っていました。
また、復興屋台村では昼間は観光客、夜は復興作業の為に来ている方々などで賑わい、店主の方たちの頑張ろうという気持ちがひしひしと伝わって来ました。
しかし、気仙沼から一歩足をのばし南三陸町など見てみると、津波の傷あとはまだまだ深く残っており、その中に復興している所、復興が中々進まない所があり格差を感じました。現地の方は、ボランティアが最初のころは沢山きてくれて色々な所を手伝ってくれていたのが、今では沢山ボランティアが来るところ、少ない所があり、復興のスピードが全く違うと言っていました。こういう所に私達も目を向けて、しっ かりと報道していかなければならないと感じました。

今回取材をしていて何度も感じたのは、被災地の方々は本当にたくましく、元気だなと感じました。
話していても見ていても自分はもっと頑張らなくてはいけないと思うくらい、逆にパワーを貰った気がします。

移動に関して言うと今回は前回と違い、ホテルは取材する所と支局とが近く移動に時間がかからなかったのですごく楽でした。昨年4月の時点では、岩手県内陸にある奥州市水沢から約2時間かかって取材先に行っていました。

2週間という短い期間でしたが、震災から初めての年明け、初セリなど確実に一歩踏み出していく現場で仕事が出来たことを誇りに思い、これからの仕事に生かせて行けるように頑張っていきます。

東日本大震災取材レポート(8)

カメラ:鶴田新子
取材先:岩手県
取材期間:2001年11月3日~12日

岩手県のIBC岩手放送に11月3日から12日まで応援取材に行ってきました。
今までに企画取材で5月と9月に、岩手県釜石市と陸前高田市を中心に被災地に行ってきましたが、被災地の放送局での応援取材というかたちで行ったのは初めてでした。
IBCでは、毎日のニュース取材ではなく、企画ニュース取材を任されました。 IBCから与えられた企画ではなく、全く知らない土地で独自性のある企画を探すというのは難しく手探りでした。
一番大変に感じたのは移動と宿で、IBCのある盛岡市内から被災地まで平均片道2時間半の移動は大変で、時間がもったいなく感じました。また、被災地の海沿いは大半が津波を受けていて、宿を確保するのに苦労しました。
私が現地に入ってすぐ雨が降り、気温が下がり初霜・初氷を観測。11月の始めとは思えない寒さで、ドライバーも含め全員が体調を崩しかけてしまいましたが、無事終えて帰って来れました。
今回は企画ニュースを二本撮影し、編集しました。
一本は、釜石市の本郷地区という集落の桜舞太鼓。
5月に取材に行った時に釜石の避難所で知りあった方と再会でき、桜舞太鼓の話しを聞きました。練習場が津波にさらわれ、29張りあった太鼓は全て流されましたが、瓦礫の中から海水にひたった太鼓14張りを拾い上げ、少しずつ自分達で修理し、7月から活動を再開していました。
太鼓は海水や泥水を吸って変形したものを工夫して使っていました。
太鼓を披露する前日から取材できたので、限られたスケジュールの中、スムーズに取材することができました。
もう一本は山田町の食堂。被災し津波に全てがさらわれた町の真ん中に建物が残っただけの商店を、若い起業家が現地の人と一緒に食堂を営みつつオリジナルベーコンを作り、県外に売り込もというものでした。
私は、今回の応援取材以前から被災地は岩手県しか行ったことがありませんが、5月から約半年間同じ場所に何度か行き、同じ場所を何度も見ることができました。少しずつですが店が再開していたり、道路が整備されたり、小さなことかも知れませんが、自動販売機が設置されていたりなどの変化に気がつくこともできました。
岩手県の復興をこの半年間直接現地で見ることができたのは、とても貴重な体験だったと思います。
また、何度かの取材でたくさんの人に出会うことができました。
取材に協力して頂いた多くのひとに感謝です。ありがとうございました。
被災された大勢の人が、少しでも早く普通の生活に戻れることを祈っています。

東日本大震災取材レポート(7)

カメラ:廣田豊
取材先:岩手県
取材期間:2011年10月26日~11月4日

岩手県にあるIBC岩手放送に被災地応援に行って来ました。
岩手に正式に応援に行くのは社内では初めてになります。私は、震災後3カ月の宮城に続き2回目の応援になります。
今回の応援に行って一番苦労したのが宿泊先です。盛岡市内のホテルは宿泊できるのですが、震災で被害を受けた取材地域までは、盛岡市内から車で2時間半以上離れている為に現地で宿を探すのですが、ホテルや旅館も震災して数が減っている中で、復興の為に来ている作業員の方々が長期で滞在されていて、被災地ではなかなか見つかりません。やっと確保できた宿は、被災地から1時間以上離れた山の中にある旅館でした。
リアス式海岸は広範囲に津波被害を受けていました。今回の応援で訪れた被災地は、陸前高田、大船渡、釜石、大槌、山田、宮古、何処に行っても津波による被害は壮絶です。復興もやっと始まったばかりで、現在は壊れた防波堤の修復や高さが10メートルにもなる瓦礫の処理をしている状況でした。取材中に釜石市の職員の方と話す機会があったのですが、瓦礫処理の受け入れを表明していた自治体も放射能の問題で、受け入れを拒否する状況になっているとの事でした。これに関しては賛否両論あると思いますが、福島原発から250キロ離れた釜石の住民は、放射能の基準値を下回る瓦礫と、今も一緒に生活をしている現実があります。釜石市では何年掛かるか判らないが自前で処理する予定だそうです。

今回リポート2本を制作しました。1本は大船渡で復興を目指す本屋さん。震災前は5店舗あった店が震災後残ったのは1店舗だけ、復興を目指して12月に出来る仮設の商店街に出店する様子を取材しました。この企画は福岡の本屋さんのイベント「ブックオカ」で、オリジナルのノートを販売して、売上の一部を震災で被害を受けた本屋さんに寄付する取材をした関係で、大船渡の本屋さんに取材をお願いしました。
今回出店する仮設店舗スペースは今までの5分の1と縮小しての再開だそうですが、何よりも一歩前に出る事の喜びが大きいと話されるのが印象的でした。

もう1本の企画は、ソフトバンクホークスの育成枠で指名された岩手大の三浦翔太投手。
被災地の大槌出身です。三浦投手のお父さんは地元の大槌中学校の副校長をされていて、お父さんとお話をする中で私達の関心は三浦投手と大槌の街や中学校になり、両方を取材する事になりました。
大槌町と言われてもピント来ないと思いますが、観光船「はまゆり」がビルの上に乗り上げた映像は皆さん記憶にあると思います、そこが大槌町です。三浦投手のお父さんに被災した大槌の街や中学校を案内してもらいました。街はコンクリートの基礎だけ残った大地が広がり、僅かに残ったビルや駅のプラットホームが目立ちます。大槌町は津波の後に火災が起き街を焼き尽くしたそうです。
※前回の宮城の時も思った事ですが、自分が撮影しているにも関わらず壮絶な状況の一部しか撮影出来ていないし、被災者のことを思うと本当に此処を撮影していいのかと疑問に思います。

震災した中学校にも行きましたが、1階の校舎は津波と火災で教室の面影はありません。
2階は3年生の教室で津波の被害はありませんでした。本来なら津波の翌日が卒業式だったそうで、震災当日は卒業式の練習だけで午前中で下校しており、学校での最悪の状態は回避出来たそうですが、それでも生徒2人が自宅で津波の犠牲になったそうです
教室では整然と並んだ机や椅子、黒板には“皆でがんばるぞ”の文字、廊下には無造作に散らかったままのプリント用紙、誰も居ない校舎にいると胸が痛くなりました。体育館は床が1メートル位反り返っていて異常な状態です。それでも震災直後は遺体の安置所になっていたと聞きました。グランドは一面にスクラップになった自動車の山、それを整理している作業車の音だけが空しく響いていました。
現在の大槌中学校は町営のサッカー場に作られた仮設の2階建の校舎です。被災した他の小学校4校も同じ敷地内にあり、グランドや体育館などを共有していて不便そうでした。生徒に質問したところ生徒からは意外に、「全校生徒同じ校舎で授業できるから不便は感じません」という答えが返ってきました。実はこの仮設校舎の完成する9月までは、学年ごとに分かれて他の中学校に通っていたそうです。この仮設校舎は生徒達には復興の第一歩なのかもしれません。

被災者の方と話していたらこんな話を聞きました。「この頃、被災地バスツアーが増えているそうで、観光気分で訪れる方も増えてきているが、それでも訪れてくれるだけいい方です。盛岡の人達は被災地の事を忘れてかけている!」 確かに盛岡市内は震災の被害も少なく普通の生活が出来ていますが、決して震災を忘れたわけではないと思います。
ここに被災地との温度差があるのではないか?と思います。ましてや遠く離れた場所で住んでいる私達はどうなのか?震災から8カ月経って全国ニュースは被災地を伝える量も減っています。忘れている訳では無いですが、記憶が薄くなっているのではないか?
そう考えていると、今回一番嬉しいニュースが流れていました。(他局でしたが)東北3県で作っている番組の中で、復興トマト!の話題を取り上げていました。それは6月に宮城県の岩沼市で、津波の塩害がでた農地に塩トマトの苗を植えて畑を再生させる魔法の様な栽培方法です。私が取材して全国のニュースで放送されました。その塩トマトが実り「「復興トマト」として販売されているニュースでした。本当に嬉しい出来ごとでした。
被災地の復興は決して生易しいものでは無いと実感する中、それでも前に向けて歩き出している人達がいます。壊れた小学校の前に仮設で再開したコインランドリーや仏壇屋さん。何もない大地にポツンと建つ仮設の酒屋さん。知合いの方の話ではお店は勿論、ご家族も津波で亡くされていて、今は仮設住宅からお店に通われているそうです。その酒屋さんも悲しみに耐えながら一歩でも前に進もうとされています。決して大きなニュースでは無いかもしれませんが、被災を受けた人々に勇気や希望を与える出来事です。これからは、こうした被災者に対しても密着して取材することが重要だと思います。

岩手の被災地は秋も終わり本格的な冬に入ります。 厳しい冬をどうぞ乗り越えてくださいと願うばかりです。

東日本大震災取材レポート(6)

カメラ:善村益義
取材先:宮城県仙台市
取材期間:2011年9月11日~23日

3.11の震災から半年過ぎて、応援のカメラマンも一巡してきたこともあり、私も一度はこの未曾有の大震災の現場を画面を通して観るだけじゃなく、実際に現場を見てみたい気持ちもあり9月11日から23日まで応援に行った。
今回はTBC東北放送の応援と言う事で実際にどれくらい被災地に足を運べるか解りませんでした。応援に行ったカメラマンに話を聞くと企画が2本ぐらい、後はデイリー取材が1日1本程度という事だった。

9月11日
19時前に仙台空港に到着、滑走路に津波が襲ってくる映像を何度も観ていましたが、既に周りは暗くどんな状態か分からないが、空港ビル内には津波の跡は見かけない。(震災以降閉鎖していた3階フロアーがこの日再開したことを、後で知りました。)
直接TBCに入りデスクに挨拶すると翌日のネタを割り当てられた。
この日の夜は仙台駅周辺でジャズフェスティバルが開催され街は賑わっていた。

9月12日
名取市の閖上小・中学校に中川文部大臣が視察、仙台市内に近いこの場所は田園地帯で津波の被害を受けた畑は全滅、草が生い茂っている中にまだ車や漁船が放置されていた。校内は3階付近まで泥が残っている。屋上に登るとはるか遠くに海岸線が見える。津波はここまで襲ってきたのかと脅威を感じた。この周辺が住宅地だったらと思うと恐ろしくなる、仙台市中央部は何もなかったように見えるけど少し離れれば悲惨な光景が広がっていた。

9月13日
この日は企画取材2本。
『夢の扉』でも放送した藻からガソリンを作る実験を仙台市が取り組んでいる。仙台市役所の担当者をインタビュー取材の後、実験場となる下水処理場に向う。車中でこの企画は偶然から出た話で、研究をしている筑波大の渡辺教授が宮城出身という事もあり話はとんとん拍子で進んでいったと聞く。琵琶湖の3分の2の広さで日本のガソリンは輸入に頼らなくてもいいという夢のような話ですと担当者が嬉しそうに話していたのが印象的だった。可能性はありそうなので実現出来れば復興にもなるしいい企画だと思った。
午後から別取材で石巻に移動、この街は未だに信号が切れていたり漁港周辺は津波で壊滅していた。近くの商店街も形はあるものの傾いてとうてい住めない状態で、住民もあまり見かけない。震災前はそれなりに賑わっていたらしいが店を再建しても、近くに住む人も少なく客は来ないだろうし、先が見えない状態が続いているようだった。

9月16日
この日は高校生の就職試験解禁日、石巻のハローワーク、高校の担当者が商工会議所に就職支援の依頼を取材、後で商工会の会頭にインタビューしたところ地元での就職は厳しいと言い切っていた。被災者も働く場所がなく、高校生の県外就職が増えていくようで、町の復興どころか衰退してくのではないだろか。
その素材を通信員の所に持ち込み伝送依頼。通信員は疲労困憊していた。津波で家のすぐ近く50m位の所まで全て流されていた、その後火災もありかなり危険な状況で取材した震災直後の映像は停電の為送れず、その後3日間は車の中で寝起きをしていたらしい。今もほとんど休みが取れない状況らしい。

9月21日
この日は応援最終日、台風15号が近づく中16時頃デイリー取材が終わりTBCに帰る途中、台風取材で石巻に行ってほしいと連絡が入る。カメラをここで壊すわけにはいかないのでホームセンターでビニールやタオルを買い揃える。店を出ると次に来るカメラマンから電話、飛行機が欠航になったとのこと。その後部長から1日延長との連絡が入る。
石巻に付くころ雨、風が段々ひどくなる。避難所に向うが、道は両サイド川のように水が流れて周りは暗くて水位が分からない。満潮も近い、街中いたるところで冠水していたのでこの道を行くのは危険ではないかと少し不安になる。
その時新しい指示が来た。気仙沼の仮設住宅が浸水して自衛隊が派遣されているのでそちらに向ってほしとのこと。冠水した道をUターンしながら近くまで行くも、あと少しのところでとても車が入れる状態ではなく、行けないことをデスクに連絡すると撤収命令。時間は午前零時を回っていた。高速道路は通行止めで下の道を走って仙台市内のホテルに帰る。
行く前は被災地にどれくらい入れるか解らなかったが、実際に名取・石巻・塩釜・女川・気仙沼をほんの一部だが見て回れた。被災者と直接話しを聞くことはできなかったが、津波の脅威を改めて肌で感じることが出来た。復興はいつ出来るのだろうか、5年や10年では出来ないのではないだろうか、世間が忘れない為にも報道も継続していく必要性を強く感じた。

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